【旅エッセイ】伊勢へゆく〜決意編〜

「それぞれに守護神がいて、その神社に参拝にいくといいらしいよ」

 

私が神の待つ街伊勢へ行こうと決めたのは会社の同僚とのこんな、

「いいらしいよ」

というなんともざっくりとした話がきっかけだった。

 

 

それは年末の忘年会シーズンで、私の所属する会社のチームでは夜の飲み会ではなくランチ会が開催された。

 

ただし、私は同僚との雑談というのが超がつくほど苦手だ。

 

職場での噂話やゴシップ

 

ー「あの人実は〇〇さんと喧嘩したらしいよ」

「〇〇さんって正直使えないよね」等々ー

 

には全く関心がないし、

仕事論など語られた暁には目を閉じて(耳は手を使わずに閉じられないのが残念)、

スーパー瞑想タイムに入ってしまいかねない。

 

ランチ忘年会当日、中華料理店で食事を待っている間、

軽く仕事の話などしていたが、順々にそれぞれのプライベートなことを話す流れに。

 

最近ハマっているというキャラクターグッズ集めの話、

実家でゴールデンレトリーバーを飼い始めた話、

山登りの醍醐味は頂上で飲むホットコーヒーだという話、

 

そんな話を聞くのは大変に楽しい。

 

人が「好き」なことを話す時に、目をキラキラさせている姿に

私は胸をときめかせる。

 

そこでとある人の話に登場したのが、「神」。

 

きっかけは社内のとある人物が人のオーラを見ることができるらしい

という噂話からだった。

そこからスピリチュアル系の話になり、

自分の守護神を皆が調べ始めるという流れになったのだった。

 

私が調べたところマイ守護神は豊受大神(トヨウケノオオミカミ)であることが判明。

 

最初にこの守護神の話を持ち出した人物(※先輩Aとしよう)にそれを伝えると、

 

伊勢神宮行った方がいいよ!!!」

 

と、そのキラキラした瞳で訴えかけられてしまった。

どうやら伊勢神宮には内宮にかの有名な天照大神アマテラスオオミカミ)が、

外宮に豊受大神が祀られているというのだ。

 

天照大神がご飯を食べる時一人だと寂しいから豊受大神を呼んで食べていたから、

豊受大神を守護神に持つ者は食べ物に困らない

 

というエピソードも先輩Aは教えてくれた。

 

なるほど、だから食いしん坊なのか、じゃあしょうがないか、

などと自分を納得させながら目の前にどんどん運ばれてくる中華料理に手を伸ばす。

 

 

先輩Aはとてもロマンティックな思想の持ち主で、

自分が伊勢神宮に行った時に稲の形をした雲を見たと熱心に写真まで見せてくれた。

流石の私もそんな熱量にさらされては、

伊勢神宮、ひいては自分の守護神に興味を持ってしまう。

 

そのランチが終わってからもなんとなく自分の中に

豊受大神に会いに行きたい」

という気持ちが心の中に残っていた。

 

そんなことをモヤモヤ〜っと考えていたちょうどその時、

長年の親友が家族で伊勢に旅行に行ってきたというではないか。

 

それもどうやら伊勢神宮の他に、石神さんという神社がお目当てだったとのこと。

 

石神さん?!

 

初めて聞いたが、その石神さんは女性の願いを叶えてくれると言われており、

彼女がお参りした1週間後、

気になっていた人に気持ちを伝えるチャンスを得たというのだ。

 

なにぃぃぃ!?

 

その時、私は決意した。

 

 

よし、伊勢に行こう。

 

 

豊受大神や、神秘体験のようなものより

強烈に私を伊勢へと向かわせたのは

紛れもなく、

「彼氏が欲しい・結婚したい」

という飽くなき欲求であった。

 

そこですぐに私は、中学からの友人ひとりに声をかけ、

速攻伊勢のホテルを予約したのだった。

 

 

ーーー

 

年明けのチームで催された年始ランチ会で、私は伊勢へ行くことにした報告をした。

それを聞いた先輩Aがまたあのキラキラとした瞳を覗かせ喜んでいて、その顔が私の伊勢への気持ちを昂らせてくれたのだった。

転職活動って合わせ鏡みたい

 

転職活動をしている。

「本当に自分のやりたいことは何か」そんなことをずっとずっと考える。

 


色んな本を読んだし、

色んな話を聞いたし、

色んな人に相談した。


自分自身について、色んな角度からみてみた。でも、余計にわからなくなった。


合わせ鏡で自分を見ているようだ。

たくさんの自分の片鱗を見るけれど、

鏡の奥の方に映る自分の全貌は、

その前にいる自分の姿で見えない。

全身がしっかり映っている自分は、

どうも自身なさげに猫背で立っている。

 


目を閉じて、自分に問う。

「分かってるんだよね?

言っちゃいなよ、閉じ込めてる願望」

 


答えは出ているけれど、

目を開ける自信はない。

【エッセイ】利己的に徳を積んでいきたい/ブラッシュアップライフ1話を観て

さて、ギリギリ日曜日になって更新をすることを決意しました。

1回きりの更新にならず、私自身が安心しています。

だって、一回で終わってしまったらきっと「結局この歳になっても何も続かないダメな奴だ」と自分で烙印を押してしまうのだもの。

 

ただ、問題があります。

 

書くことがない。

 

本当に書くトピックがないのです。

平日は仕事をしていて、もちろん嫌なこともたくさんありますが

それをぐちぐち書き連ねるなんてことは途方もなくつまらないので断じて私はいたしません。

 

それ以外は趣味の読書をしていたのですが、アガサ・クリスティーの「ねじれた家」を読んでいたら半分くらいで犯人を確信してしまったことに落ち込みながら読了しました。

 

特段美味しいものを食べてもおりません。

低気圧で少し体調を崩していたけど今は元気でございます。

友人にも会ったりして、息抜きもできています。

 

あれ?

これって所謂実はすごく幸せなことだったりするのではないでしょうか。

 

じゃあそんな私は今死んで次の生まれ変わりは

可愛い/かっこいい 人間になれるのかな?と考えましたが、否。

きっと私はアンデス山脈のアルパカなどに配属されるんだと思います。

 

この考えの経緯となる元ネタはバカリズムさん脚本の新ドラマ「ブラッシュアップライフ」。

主人公がひょんなことから死んでしまい、死後の世界で来世はアリクイですと告げられます。なぜなら今世での徳が足りないため人間に生まれ変われなかったから。

 

私はこのドラマを見て我が人生を振り返りました。

 

徳ね。

でも私はあ〜人生このままでいいや〜って思っていました。

仕事もあり、

飢えず、

恋人はいないけど、

好きな友達といつでも会える環境にある。

こんな人生も悪くないな〜って。

 

だから、こうやって書くと決めたブログにさえ、

特に書きたいと思うトピックのない生活でも満足できるのです。

でも圧倒的に徳積み足りてない、と思いました。

人のために心を動かし、体も動かし、

ってことができてないんです。

 

学生の時や、もっと若い時(今でも若いと自覚してます)は「将来の自分」のために一生懸命布石を打っていた。

けど、もういまや「人の幸せ」のために動けるようになりたいとも思うし、

そうでなくてはいけないのではないかと、自問するばかり。

 

このゆるい生活は好きだけど、

来世で待ってるアルパカの人生もいいけど、

今世でもう少し、

も少しだけ、

人のために尽くせる人間になろうと思いました。

 

(さて、この気持ちの賞味期限はいつ頃でしょうね)

 

徳をつむって、

非常に自己中心的ですよね。ある意味利己的。

人間らしくて、いいなと思いました。

利己的に徳を積むことで、「人間ポイント」が溜まって

神様が人間としての能力として評価してくれて、

それで来世でも人間になれるんじゃないかな。はは。

 

では、また。

【エッセイ】2023年版主人公的頑張る女子也。

特別お題「わたしの2022年・2023年にやりたいこと

 

 

映画やドラマでは登場人物が真剣に机に向かって作業をしている描写のとき、その人の動きは大袈裟に演じられていることがしばしばある。

必要以上に紙の音を大きく立ててみたり、卓上に煩雑に並べられた情報に翻弄され首が赤べこのように忙しなく揺れる。

私はいつも「それって本当に集中しているのかな」と思ってしまう。

だって私が集中している時はきっと口は半開きで顔の下半身は重力に逆らおうとはせず、眉間には知らず知らずのうちに特大級のしわが寄せられているだろうから。到底人に見せられるような顔面ではない。(オンラインミーティングで気を抜いていた時にふと自分の顔をみた瞬間のそれなのである)

 

お仕事ドラマなどで主人公が逆境に立ち向かうべく「集中」して作業をしているシーンは、視聴者からすれば「がんばれ!!」と応援したくなる謂わば山場である。そんな時にふと冷めてしまう私の嫌いな言葉は「死ぬ気で頑張る!」だ。

 

そんな「主人公的頑張る女子」を現実世界で見つけてしまったのは、1月3日の夕方に買い物ついでにスターバックスで一休みしようと入ったときだった。彼女はおそらく何かを勉強していてノートや参考書、そしてまた別のノート、と机の上は紙でいっぱいになっていた。

目の前に広げられているノートのページをビシバシとめくり、キリッとした顔をして視線を卓上で縦横無尽に踊らせていた。まるでその子にだけBGMがかかっているかのようで、さながら偏差値底辺からトップ大学に合格しようとせん主人公だ。

ドラマではどうも感情移入ができなかったけれど、現実に見るとなんだか可愛いと思った。

だって今日は1月3日。

きっと「今年は頑張るぞ!」と張り切って勉強を始めたのだろう。そう思うと尊い

その情熱の火はきっと1週間も経たずに消えてしまうのだから。

1週間も経てば、その勉強しなくてはという自分が決めた目標の義務感に辟易しながらなるべく体力を温存するかの如く最小限の動きで作業を進めることになるだろう。

 

いいじゃん、年始。

私の好きな言葉は「意気込み」だ。

 

 

そんな私もこうしてブログを始めた。いっつもそうだ。

日記を始めてみたり、ダイエットを始めてみたり、転職について調べ始めるのも決まって年始。

何かが終わって、始まる瞬間が、なんかすごく好き。

続けるのが大事でそして一番大変だとわかりつつも「やるぞ!」と意気込んで始めてみるという甘美な魅力には何年経っても抗えない。

きっと誰もが生まれ変わりたい欲とか、一新したい欲を心のどこかに抱えていて年始の悪魔にはそれを増長させる力があるのだと思う。きっとそうだ。

 

今年はどうやら年始の悪魔によって「執筆欲」というのが私の中でむくむくと大きくなったようだ。

このブログも毎週更新してみようと思う。(最初で最後の投稿にならないよう初詣で神にでも祈っておこう)

 

全部年始の悪魔のせいなんだから、みんなが主人公症候群にかかって髪を振り乱しながら何かを始めてみたらいいんだよ。

それを滑稽だったと思い出すのはきっと来年の年始のこと。